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達人インタビュー

現代の礎を築いてきた鉄道マン

時間に正確で安全。日本の鉄道は世界一だと言われている。
その礎を築き、鉄道に人生を捧げてきた楠 穰氏。
新幹線を走らせてきた国鉄時代から、経営の中枢にまで昇りつめたJR時代。
そして、いまだに現役として鉄道に携わっている。
そんな楠氏の足跡を振り返りながら、鉄道にかける想いに迫った。

アルバイトから始まった鉄道人生

レイギアーズ達人インタビュー

映画「ぽっぽや」の高倉健か、はたまた長年トンネルを掘り続けてきた屈強な技師か。国鉄時代から鉄道畑一筋という事前情報からイメージしていたのは、そんな寡黙で芯の強い人物像だった。

 しかし、インタビューの待ち合わせ場所に来た楠 穰氏は、拍子抜けするほど気さくな人柄。その反面、70歳を超えたとは思えない溢れ出るバイタリティが印象的だった。

 さて、楠氏の鉄道マンとしての足跡を振り返っていこう。楠氏が鉄道の世界に足を踏み入れたのは、東京オリンピックが開催された翌年。学費のためのアルバイト先として国鉄を選んだのがきっかけだ。

「当時、小田急が好きだったんですよ。小田急沿線に住んでいたから。でも、大学卒業時には募集していなくて。ちょうど今で言うロマンスカーの試運転をしていた頃で、車両の屋根にスピーカーを付けて『カランコロン』鳴らしながら走っていましたね」と懐かしい思い出を語る。

「アルバイトをしていた国鉄では登用試験がありましてね。それに受かって大学卒業の認定を受けたんです。当時の国鉄は36万人もいましたから、学歴というか年功序列である程度のレールが敷かれていたんですよね。大卒はいい仕事が回ってくるという訳なんです」

 1968年、楠氏は国鉄の社員として採用された。入社後はルート選定専門と言えるほど、その仕事を多く手掛けている

国民の夢を実現する新幹線のルート

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「まずは第二東海道新幹線の東京〜富士川間のルート検討をしました。こちらは実現しなかったのですが、すぐに東北新幹線を走らせることが決まって、それに関わりました。最初は宇都宮と白河、それからその間に1つ駅を作ることだけが決まっている状態。そこからルートを引くわけなんですよ。時間も速度も速くしたいから、本当は最短距離を行きたい。宇都宮と白河を直線で結んだルートが最適ですよね。でも、そうはいかない。神社仏閣、お墓は避けなければいけないし、地質も考慮しなくてはいけない。

 それから、新幹線には多くの決まりごとがあって、たとえば最小曲線半径は4000m、最急線路勾配は1000分の12と決まっているんです。それから、基本的に河川も直角に渡らなければいけない。高速道路のようなアップ・ダウンやカーブで作れたら自由度が高くて工事費も抑えられるのですが、速度が違いますし、安全も確保しなくてはいけませんからね」

 何気なく利用していると気づきにくいが、日本地図を見てみるとよく分かる。都市部を抜けると新幹線はできるだけ都市間を直線で結ぶように線路が引かれているのだ。その反面、大きくカーブしている区間もある。楠氏の話を思い出しながら、その理由を想像してみる……。そうして眺める地図は今までと見え方が違ってくるから面白い。

登山家のような現地調査の日々

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 今では当たり前のように利用している新幹線。しかし、1960年代、70年代は夢の乗り物。わが町に新幹線が走るとなれば、地元は大いに賑わっただろう。その意味でルート選定という仕事は国民の生活や社会に大きな夢と未来を与えた。しかし、同時に現実との戦いでもある。

「例えば1kmのトンネルを掘るのにどれくらいの時間がかかるか分かりますか? 当時は1年間です。10kmを掘るとなると、両側から進めても5年。途方もないですよね。それから、先ほども言ったように避けなければいけない場所もありますし、環境や生活の問題から地元住民の理解を得られないこともある。

 それから、何よりも地質が重要なんです。日本は次々に地質が変わります。なので、登山靴を履いて、ハンマーとルーペを持って山に入り、沢を1つずつ登っていくんです。どんな石がどんな傾きであるのかを調査して、隣の沢を登っていく。それをつなぎ合わせて、ずれていれば断層があるというわけです。そうやって地質調査を現地でしてきたわけですが、まるで登山家か探検家のようなことをしていましたね」

 楠氏から溢れ出るバイタリティの原点は、このようなフィールドワークで培われてきたのかもしれない。

人生観をも変えた海外事業

達人インタビュー

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 そのような現地調査は日本国内に留まらず、海外にも及んだ。楠氏はボリビアやマレーシアでもルート選定をしている。

「南米のボリビアではガラガラ蛇やサソリ、タランチュラがいるジャングルを歩いて、どこにトンネルを掘るのか、どこに橋を架けるかを調査・測量していくわけですが、もちろん電気もガスも水道もないわけで。それこそ探検家ですよね。たとえばガラガラ蛇は、現地の人たちは踏まなければ襲わないと言うし、噛まれても『神のご加護があれば助かる』なんて言っていましたが、こっちは怖いですよね。だからライフルを貸してくれって言ったんです。撃っても当たるわけはないんですけどね。

 それから、ボリビアに行ったのが1980年だったのですが、そのときにGPS衛星が飛んでいることを初めて知って、それに一番驚きましたね。今でこそ携帯電話やカーナビゲーションでGPSは一般的になっていて、みなさん当たり前のように使っていますが、初めて知ったあのときは本当にビックリしました。

 それはさておき、今まで日本で経験したことがない南米や東南アジアの環境、人々、宗教の違いなど、ボリビアで2年、マレーシアで1年弱の現地調査をして、本当に人生観が変わりました」

 病院まで500kmは離れているジャングルの中で、猛毒を持った動物がすぐそこにいる。そんな環境で生活をしたことで、色々と覚悟はしたそうだ。この経験が後の仕事にも大きな影響を与えたという。

ゴミ3分別の発案者は楠氏

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 国鉄は1987年に民営化され、楠氏はJR東日本に籍を置くこととなる。そしてそこからは、これまでのルート選定とは全く異なる、ホテルや新幹線の車内通販「トレインショップ」、JEF市原サッカーチームの立ち上げなど、様々な事業に携わってきた。ここではその中の1つを取り上げたい。それがゴミの分別だ。

 駅構内で見る3つに分別されたゴミ箱。今では当たり前のように使っているが、それを発案したのが楠氏だったのだ。このとき楠氏は、経営管理部という社内のトップに位置する部署に在籍していた。

「列車や駅で出されるゴミは様々で、毎日の量も半端ではありません。産業廃棄物として処理するとコストも莫大になる。だったらゴミになるものを減らして、資源にできるものは資源にしようと考えたわけです。当時、ドイツでは当然のように5分別をしていたんですね。

 ホームの端でブルーシートの上に駅のゴミ箱の中身をひっくり返して、どんなゴミがどれだけ入っているのかを分析したんです。その結果、3分別にしようとなったわけです。同時に新聞・雑誌なら口を細くして他の物が混ざらないようにゴミ箱も工夫しました。混ざってしまうと資源がゴミになってしまいますから。新聞・雑誌やビンは無料で引き取ってくれ、カンは売ることができるんですね。その結果、ゴミの処理費用が3分の1にまで減ったんですよ」

 今ではどこの駅でも目にする3分別のゴミ箱だが、このゴミの3分別プロジェクトを進めていた96年、エコロジーを議論している会社は少なかった。ゴミを処理するコストを大幅に削減することが目的だったプロジェクトは、本来の目的を達成しただけでなく、現在につながる社会に大きな貢献を果たしている。楠氏のこの発想と着眼点が現在のスタンダードになっているのだ。

 また、楠氏はこのゴミ3分別で特許を取るつもりでいたが、このプロジェクトのリーダーを務めていた細谷英二さん(後にりそな銀行会長に就任)に、「国のためになるなら特許は取るな。多くの人に使ってもらえ」と言われて特許の申請はやめた。そのとき、楠氏は「大物は違うな」と感心したそうだ。細谷氏のひと言があったからこそ、JRの各駅だけでなくコンビニなどの至る所で分別ゴミ箱を目にするようになった。その意味では細谷氏は先見の明を持っていたのだ。

東日本大震災で活躍した台車

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 1998年に楠氏はJR東日本を退社しているが、以後も鉄道に関わってきた。そして、2011年に発生した東日本大震災では、楠氏は計り知れないほどの貢献を果たす。そこで活躍したのが軌道走行用台車と呼ばれるものだ。

「地震によって線路上には電柱が倒れ、架線も絡まっている。そうなると電車は走れないですよね。そこでボクの出番。この軌道走行用台車(通称「軌陸車」)は、道路を走っている車両を線路でも走れるようにするものなんです。この台車に乗せる車両の動力で走るので、架線が切れていようと関係ありません。

 ラフタークレーンと呼ばれる、走行・旋回・吊り上げが出来るクレーン車を乗せて、早速6台の台車とともに出発しました。これで列車の運行を妨げる線路上の障害物を取り除いていきながら進むわけです。さらに言えば、この方式なら、線路を下りればそのまま現地で作業ができるんです。

専用のクレーン車を造ると、1台何億円もかかるのですが、台車ならその何分の1で造れる。しかも、今回のように災害時の機動力もある。この台車のおかげで、東北新幹線は約1カ月で復旧できました」

 災害復旧に尽力した楠氏は、この経験を活かして新たな台車の製造を検討しているそうだ。

異業種交流を積極的にしてほしい

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 楠氏のこれまでの鉄道人生と携わってきた仕事はあまりのも多岐に渡り、紹介しきれないほどだ。このほかにも興味深い話は数多くあったが、最後に鉄道で働く若い人たちに向けたメッセージを紹介したい。

「とにかく異業種交流をしてほしいと思いますね。大学などの学生時代の友人を大切にしてください。『社内だけの付き合いだけではダメ』だと、後輩には言ってきました。そうすると、自分の知らない分野があっても、友人やつながりのある人に聞けるわけです。誰だって最初からすべての仕事ができるわけじゃない。頼って頼られる、そんな人間関係を多く築いていくことが、スムーズに仕事をしていったり、仕事の幅を広げたりすると思います。

 このメッセージはどんな業種で働く人にも当てはまる言葉だ。どんな仕事でも壁にぶつかることはある。また、これまでとはまったく違った仕事をすることもあるだろう。そんなとき、分からないことが聞ける、アドバイスをもらえる、そんな頼りになる友人が身の回りにいるか、いないか……それが仕事をしていく上で大きな分岐点になる。その壁を乗り越え、初めてのプロジェクトで成功を収めれば、仕事の評価は高いものになるだろう。

 楠氏がこれだけ多岐に渡る仕事をしてこられたのも、そんな頼れる人が回りにいたからにほかならない。一人の力では仕事は成し遂げられない。困ったときに手を差し伸べてくれる存在があったからこそ、仕事で成功を収めてこられたのだ。それは友人だったり、先輩だったり、上司だったり……その時々で違うだろうが、頼れる人の存在の大切さが楠氏との話で再確認された。

 柔軟な発想に富み、今でも現役で鉄道に携わっている楠氏。「なりたくてなったわけではない」と言うが、根っからの鉄道マンとして生きてきた。まだ東海道新幹線しか走っていなかった時代に東北新幹線開通に尽力し、身近なところではゴミ3分別を発案。今、快適に駅や列車を利用できるのは、楠氏の功績が大きいことを初めて知ったインタビューだった。